Tracerouteの話しを小出しに【その1】

2023-07-04更新 [author:      

8月に、金沢ナイトミュージアムの企画に参加する。
朗読ユニットTracerouteとして、朗読を長澤泰子、クラリネット西田宏美、パーカッション大久保リナコの3名による、朗読と音楽の関係の再構築の試みの実演だ。
Tracerouteでやろうとしている事の構想自体は一昨年ぐらいからなんとなくあって、昨年の春ごろ、西田さんに相談し、年明けから模索を本格化したもので、長澤の朗読の活動にも大きなヒントを得ているほか、音楽的に可能か不可能かのジャッジの結構なところを大久保さんに委ねた感じもある。
試みとしては始まったばかりで、ブラッシュアップ以前に、見識不足もあるのではと気が気でない部分もあるので、ある程度書き残しておこうと思う。

金沢ナイトミュージアム Traceroute『媒介者をめぐる試み』のページ
https://www.nightkanazawa.com/2023/08/post-563.php

朗読について

セリフを言う様な朗読や、謎のうねりのある朗読、アナウンサーがやるような、今でなら合成音声で代替して適切な調整が加えられるならば十分な朗読が蔓延している。
文字を声にするのは、概ね誰もがやっていることで、その技術についてはあまり顧みられることがないし、最終的にどうなるのが良いのかというと、実は発声自体の基礎技術というよりも、本来は目的別の技術が極めて乱暴に朗読の技術として認識されていて、朗読自体、聞く側にも基準となる美意識が形成されていない可能性がある。

舞踊が操体の技術の行く先のひとつと考えれば、朗読の技術にも基礎的な部分と、どの様なレベル、文脈で表現として成立させ、そのクオリティを人に問えるまでに高めるかという問いは存在している。
それは概ね、田舎にまだわずかに生存する謎のうねりを伴うセリフ回しや、アニメーションにありがちな型の処理、アナウンスの技術とは全く別のものだ。

血パンダの結成メンバーの長澤は、ナレーターとしての仕事をこなしつつ、日常会話に近いセリフのリアリズムについての地味な探求にも加わってくれている。その長澤が、富山県内で朗読教室の講師を始めて、数年経つ。
血パンダでは、個々人の個体差を重視していて、実はセリフ回しも発声方法も、全員が全く同じ基準を持っているわけではない。
基本的にはセリフのために瞬間的に大きな声を出す様なことをしないので、必要のない技術を積極的には追いかけない結果こうなっているとも言えるが、おかげで舞台から聞こえてくる各役者のセリフから、何か同一線上の基準に対する巧劣の様なものが伝わるといった、無用のノイズは軽減できている。
聞けば、長澤の朗読指導も、朗読の型を規定していくものではなく、「テキストをどう読んだか」という鑑賞の部分と、それを敢えて発声する際に「それは本当に自分が思った様にできているか」と問うことを柱に、自分自身の鑑賞を深めるための朗読を指導しているとのことだ。

長澤のセリフを発する技術、ナレーターとしての技術と、どの様に朗読するのを良しとするかについては、基礎的な技術の共通点はあるものの、最終的な出力としての形はそれぞれ違うものになる。
長澤曰く、「人は一生自分の声を聞くことができない。だからこそ、自分が思った通りに発声できている人は少ない」これは全く同意するとことろだ。
演劇をやっていると、声優に憧れる若者に出会うことが多い。声優の指導を受けた経験があったり、録音した自分の声を手がかりに声の出し方を模索したことのある人の声の出し方には似通った特徴があるし、もう少し年齢があがって、例えば高校の部活動で放送部や演劇部を経験したことのある人の声の出し方にも一定の特徴がある。
これらの訓練が、長澤の言う「自分が思った通り」を実現する技術かといえば、かならずしもイコールではない。
これは「テキストをどう読んだか」の結果を経て、何らかの用途に利用するための「型」につなげる訓練で、読み手の個性とは無関係に、乱暴に言うなら換金できるかどうかの基準に当てはめていく作業でしかなく、正直なところ朗読の技術としては適切でないと考えている。

発声も操体の一部と考えれば、型を選択して何かを伝えようとする発声ではなく、朗読者の読解が伝わってくる発声もあって然るべきだ、それが人が声を発する表現行為の根本だということは、長澤の朗読を聞いていると納得できる。
声として立ち上がった文章を、自分も追えている様に感じる朗読がある。そこから感じる美しさは、作業する職人の身のこなしに思わず見惚れてしまう、目的を伴う理に適った無駄のない動作に不意に見出される美しさに似通ったものかもしれない。