『明日のハナコ』の稽古を始めて思うこと
高校生だった頃に自分が大人にできた抵抗といえばなんだろうかと思い出してみたが、あの頃、実際にできた有効な抵抗なんかない。なかった。
内履きのズックが濡れたので、学校のスリッパを履いて体育館で演劇の稽古をしていたところ、スリッパ履きとはどういうことだと体育教官に良い様に往復ビンタを食らったことがあった。
卒業後、誰だったかがその体育教官と会うことがあり、話題もないので私と知り合いだと話し、「あいつはもうちょっと頑張れば富山大学ぐらいは……」と言っていたというのを聞いて、記憶に無いなら記憶にないと言えばいいのに、適当に紋切り型とも言えない生徒像に押し込める素晴らしい仕草に感服したものだが、仕事で大量の子供を眺め続ける必要がある以上は、その程度の鈍感さが無いと頭がおかしくなるだろうと得心して、今まですっかり忘れていた。
体育教官なんて積極的に無縁だった。運動部員でもない。体育館にあるステージを使って何かよくわからないことをしている演劇部員。しかも、ひょっとしたら部活を引退しているべき時期の三年生だ。まぁ、目障りだろう。
そうそう。高校一年生の地区大会の後、先輩たちが辞めてしまったので、演劇部の活動は止まっていた。実質廃部状態だったものだが、三年生の時、演劇部に一年生が入ってきたので演劇部の活動を再開していた。
往復ビンタ。今でなら大事かもしれないが、別に誰かに被害を訴えたりはしなかった。
昭和末期というのは、そんな時代だったということでもいいが、正直なところ私憤以上のものにする気にならなかったし、私憤だからこそどうでも良かった。
大人には抵抗するものだし、体育教官とは単に生徒を威圧し続ける電池式の器具の様なものだった。運動部の連中なら、教官から何か良いことを言ってもらったかもしれないが、正直なところ、適当に良いことを言うだけなら誰にでもできるというのは、尾崎豊辺りがよく世の中に知らしめていた。
今、教員の暴力みたいなわかりやすいことについては騒ぎ立てるかもしれないが、対暴力とか、単純ね正義みたいなものに寄りかかれない方の抵抗は、なんやかんやと莫迦にされる傾向にある。
個人的に今も印象に残っているのは、SEALDsをせせら笑うだけのお気持ちの表明の数々だ。SEALDs自体に全面的に共感したわけでもないが、彼らの扱いにはかなりげんなりした。
そんなこんなで、「ネットで叩かれる、炎上する」と高校生に言って演劇を無かったことにする福井の演劇部の顧問の先生方には、その発言が正しいと自分にも生徒にも言い聞かせるだけの材料があるし、言われる高校生たちにも、具体的ではないにしてもほんのりと恐怖できる下地はあるだろう。
いや、遠くから見てるだけですけど、教員が高校生に、守ってやるとか言い含めてなんだか割り切れない思いをさせている様な雰囲気ってのは。それだけでいただけないんだ。
そして、とるものもとりあえず、玉村先生に上演の許可を願い、稽古に入ってみると、自分もすっかり大人になってしまっていることを痛感している。
実はずっと、一幕一場で照明の変化もなければSEすらない台本を書いているので、余計にそう思うのかもしれないが、『明日のハナコ』は本当に高校生向けの台本だ。
「こいつはなかなかストレートだなぁ……。」と思う自分が居る。
いや、本当に、高校生の間はそれでもいいと思う。大人になってから徐々に知る感じでお願いしたい。
そう、三角関数がちゃんと使えると、丸いテーブルや座面が八角形の椅子の寸法が出せて、実際に作れてしまう。大道具作るときに役立つ。ちょっと知ってるだけで、無駄なコンパネを買わなくて済むし、時間も節約できる。演劇に役に立つ。
あと4年ほどで昭和元年から100年になる。近代や現代に突入して以降の伝統にびびったり流されたりする必要が無いことは、授業で歴史を教わっていれば、なんとなく納得できるのではないだろうか。よくわからない因襲に流されずに生きるために役に立つ。
私、高校生の頃古文の先生とケンカした挙句、和解のための課題として『平家物語』のかなりの分量を書写して品詞分解させられたおかげで、古典文法がかなり良い感じで身についてしまった。テヘ。
それでも、生まれた時から家の座敷に飾られている爺さんに贈られた漢詩の額は、字が読めない。友人に字は読んでもらっても結局、ほんの一部だけだが、引き合いにだされている逸話なのか、なんなのかわからない部分があってすごく悔しい。ずっと家にあるのに、ずっとわからないまま歳をとったので、本当に悔しい。学校の勉強だけじゃ足りていないって痛感させられる代物がずっと家にあるんだ。
教養なんてものは、あっても全く困らないので、勉強はしておくに越したことがない。それを使わないのは、使わない生活をしているだけで、そいつはなかなか残念なことだ。
体育教官は失業しても残念ねで済ませればいいが、勉強は人から習う方が素晴らしく効率がいい。先生は大事。高校生の間、どんなに勉強に身が入らなくてもだ。
ぱっと思い出せなくても、そういえば……。となってもういちど教科書が見られるかだけでも全く違うんだ。なので、玉村先生が書いたとはいえ、先生が給料もらうための要らない勉強とか、それはなにか、場合によっては先生に良い様にのせられてるぞ!気をつけろ!
そして、紙を使って、電気を使って演劇やってるみたいなことについても、ここまでストレートには言わないなぁと思いながら稽古をしている。
だが、今は色々と知恵がついてしまった自分も、入り口にしたのはこういうところからだ。
そしてこの、「言わないなぁ」は、「言わせない」とどこかで地続きだと、そんな風にこの感覚を味わっている。
俺は賢いから行動しても無駄だって知ってるとか言う奴は、そのまま時流と一緒に何処までも流されていけばいい。それでなくても、難しいから思考を放棄したり、ただ面倒に見えるものに蓋をして忘れようとするから、いつまでもどうにもならないで、地下に埋めちゃうけどゴメンとか、ハナコの台本にある様なメッセージを残すことになったり、高見の見物で何もしていないつもりでも、実はそれ自体が穴掘りに加担しているんだと、お知らせしたい。
この件で言えば、『明日のハナコ』を握りつぶされた高校生の方が当事者だから大人が出てきて何やってんだとか、そんな残酷なことを大の大人が何の気なく言うなと言いたい。ちょっと考えてみてほしい。
高校生が部活動の大会で上演した演劇を、部活の顧問たちが無かったことにするなんて蹂躙を見たんだ。大人なら、蹂躙した大人の見識を問うだろ。高校生を当事者というのは大雑把過ぎる。
そして、高校生にできる抵抗なんて、自分の時を思い出してみたらどうだ。そんな暇ありました?
そんなわけで、大人なんだから物見高いだけじゃダメだ。と見てとってしまって体も動いたので、先日から『明日のハナコ』の稽古に本格的に突入していますが、ついでに高校卒業した後ぐらいの辛いことなんかも思い出しながら、もうあの頃には戻りたくないと思える今でよかったと噛みしめつつ、ほんのりやるせない気持ちです。
この気持ち、日本全国の演劇をやっている大人にも広げたい。みんなもハナコ上演しようぜ。
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