基礎と人間性
実は、何かにつけて基礎について考えるシリーズは続いている。
とあるフレンチのシェフに「基礎ってなんですか?」と問うてみたところ、さらりと「人間性だよ」と返事が返ってきた。
シェフによれば、気合いが入りすぎて我が出て基礎を逸脱した妙な料理を作ってしまうというのは、よくあることらしい。
「店を持ったばかりの料理人なんかにありがちだけど、やってやろうって思うと変なことになるね」とのこと。
料理には、その時に考えてることもなにもかも全部出てしまうから、結局は人間性ってことになる。そんな話しだった。
別のフレンチのシェフにこの件を話したところ、全部出てしまうのは本当で、どんな修行をしたのかは勿論、生まれ育ちも料理に出てしまうという話しにもなった。
「自分はクラシックなフレンチの修行をしてきたので、なんやかんやで今風の軽やかな感じの料理や、それこそ草を食わすところまでいくようなものは作れない。そのうえ、やっぱり田舎育ちで、自分がそういう目にあってきているので、どうしてもあれこれ皿に盛りすぎてしまうので、何かもうひとつ、何かもうひとつ……。とならない様に気をつけている」
とのこと。田舎にありがちな、あれ食べろこれ食べろというのは、良い経験の様にも思うが、こうして裏目に出る場合もあるらしい。
我が出れば何かが狂い、修行という枠、良し悪しはさておき、経験から生じてしまった枠からも、なかなか逃れ難い。
恐らくは、多くのことに共通する話しだろうと考える。
そもそも、役者の個性、個体性というのは肯定するよりほかないもので、そこからは逃れる術がない。
そして、音楽の様に伝わって来れば良いなら話しは別だが、役者が気持ちよさそうに音声を発している様子が見えたところで、そこには気持ちよさそうにしている人が居るだけだ。
話している内容、トーン、会話の内容から何かを考えているか推察できる人がそこに居ると見て取れる様にし、その様子から、思考してそこに存在しているライブ感を損なわない様にという有様を、血パンダでは求めている。
演じないのかといえば、セリフを口走るからには必然的に演じることになる。
なぜなら、その登場人物の思考の方向性や速度が、まるで日常の自分と同じということはあり得ないからだ。
思考し、口走ることが妥当だと見えるためには、個体としての自分はさておき、台本の流れとそこにある登場人物の関係性にどれだけ身を委ねられるかしかない。
「なにもしないをする」というと、まるで禅問答かの様に捉えられるが、実際は具体的な演技の指針だ。
シェフたちの様に、人間性のレベルまで振り絞れるのかはさておき、なにもしないをする演劇の鍛錬にも鍛錬は存在して、日々アップデートもしている。
そんな、血パンダでの鍛錬については、『パイセンのラジオ『鍛錬?について考える』その3』にて。
公演、『定期報告会』を通じて発見できたこと、模索の手がかりというのも、多く見えてきた。なにはともあれ続行だ、続行。